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2021年6月13日日曜日

孫権VS張昭 炎の対決 その顛末! 後編

 やっぱり張公でないと


あるとき、張昭は孫権の機嫌を大きく損ねてしまいました。

そのため、目通りができなくなってしまったのですが、かれの不在中に、たまたま蜀漢の使者がやってきたのです。

この使者の名前は不明ですが、孫権らのまえで、おおいに自国の道義的なすばらしさを吹聴して、孫呉の人々を悔しがらせました。

孫権は嘆きます。

「張公がここにいたら、あの使者を屈服させられずとも、言い返すくらいはできただろう。そしたらあんなに威張られることもなかったのになあ」

そして、さっそく翌日には、隠居していた張昭に使者を送り、宮廷に帰ってくるようにと要請したのでした。

張昭は宮廷にやってくると、皇帝の機嫌を損ねたこと、長期にわたり不在だったことなどを陳謝します。

そして、自分は孫権のお母さんである呉氏と孫策により孫権を託されたことを述べ、

「わたしは臣下としての本分を尽くし、わたくしめが世を去ったのちにも、わたくしめのことが世の人の口に伝わってほしいと思ってきました。

しかし、わが短慮のため、それもかなわず、このまま死ぬかと覚悟を決めていたとき、思いもかけずふたたび御目通りがかなうこととなりました。

わたしが耳の痛いことをいうのは、衷心から申し上げているのです、御機嫌取りのような真似は、わたしにはできません」(意訳)

と孫権を仰いで言いました。

孫権はそれを聞き、自分も反省し、張昭に陳謝したといいます。

雨降って地固まる。

とはいえ、激動の時代は、むしろ両者を引き裂いていくのでした……


公孫淵をめぐる攻防


西暦232年、曹魏で、曹植がひっそりと息を引き取ったころのおはなし。

遼東に根を張っていた公孫淵から、服属したいという思いもかけない申し出がありました。

孫権はこれを聞いておおよろこび。

領土が増える、魏に対抗するのに有利になる、という喜びもあったでしょうが、自分の威光が遼東にまで及んだという喜びもおおきかったことでしょう。

孫権はさっそく張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)という二人を使者に送り、公孫淵に九錫さずけ、燕王に封じます。

しかし、張昭らはこれに大反対。

公孫淵という人物、自分の叔父さんを脅迫して遼東太守の座から引きずり下ろし、さらに魏の明帝から官位もさずかっている、したたか者。

どうも信用できません。

しかし、反対意見に孫権は耳を貸しません。

どころか、かたわらにあった刀をとって、張昭を怒鳴りました。

「呉国の士人は、宮廷にはいればわたしを拝するが、外にあってはあなたを拝している。

こうしたことが起こるのも、わたしがあなたに最大限の礼を尽くしているからだ。

それなのに、あなたはわたしをしばしば皆の前でやりこめる。

わたしはあなたのそういう態度が、国を誤らせることになるのではと、いつも心配しているのだ」

孫権の本音でしょう。事実、士大夫たちは、張昭の味方をすることが多かったのです。

張昭はそれを聞き、

「あなたのお母さまからあなたを託されたからこそ、直言をするのでございます」

と滂沱と涙を流しました。

それを見た孫権、さすがに感極まり、刀を投げ捨てて、二人でいっしょに涙を流したということです。


そんな感動的な場面があったにもかかわらず、結局孫権は、そのまま、使者を遼東に送ってしまいます。

腹を立てた張昭は、そのまま病気だと偽って、屋敷にひきこもってしまいました。


炎の顛末


孫権は張昭が仮病を使っていることを見抜いていました。

そこで張昭の屋敷の門を、土で固めさせてしまいます。

宮廷にこないのなら、どこにも出てくるな、という意志表示です。

張昭も負けてはいません。

自分の門を、内側からも盛り土で固めて、ますます引きこもります。


そんな争いをしているただ中、公孫淵に派遣されていた張弥と許晏は、気の毒にも殺されてしまいました。

やはり、公孫淵は食えないやつだったのです。

張昭が正しかった!

反省した孫権は、何度も謝罪を張昭に伝えますが、張昭はすっかり頑なになっていて、まったく耳を貸そうとしません。

孫権が自ら足を運んで、屋敷内にいる張昭に声をかけても、効果なし。

出てくるどころか、病気ですからと、ますます引きこもってしまいました。


腹を立てた孫権は、思い切った行動に出ます。

なんと、張昭の門に火をかけた!

ぼうぼうと燃える炎は、屋敷のなかにいる張昭からも見えたでしょう。

きな臭いにおいと、白煙のけむたさに悩まされつつも、張昭は頑として表に出てきません。

さすがにやりすぎだと思ったのか、我に返った孫権は門の火を消させます。

そして、ずっと門の前から立ち去らず、張昭が出てくるのを待ちました。

待ち続ける孫権に、さすがの張昭の息子たちが気兼ねして、張昭を抱えるようにして表に引っ張り出し、孫権に目通りさせました。

孫権は張昭を一緒に車に乗せて宮廷にもどると、張昭に平謝り。

その場ではなく、宮廷に連れて帰って、わざわざ謝ったというのは、群臣たちの前で謝ったというのと同然です。

深く反省した態度を見せた孫権に対し、張昭はしぶしぶ、また宮廷に顔を出すことを約束したのでした。


張昭は、張弥らが殺害された事件の3年後、236年に亡くなりました。

享年八十一。

呉の町のひとびとは、かれを「仲父(ちゅうほ)」と呼んでいたそうです。

斉の桓公が自身を覇者に押し上げてくれた管仲をそう呼んでいました。

孫権は張昭を真の恩人と認めていたでしょうか。

孫権は張昭の葬儀にあたり、素服でのぞんだという文言があるものの、目立って「嘆いた」という文言は伝わっていません。

とはいえ、孫権にとっては、張昭は乗り越えがたい大きな壁であり、実父の孫堅とはまたちがった意味で、「父」だったのではと思います。


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