董和伝から見る孔明の友人たち
三国志・蜀書の董和伝に、孔明ファンなら、「お」と思う記述があります。
孔明が蜀漢の丞相になったのち、おそらく董和が亡くなったころ、部下の役人たちに命令を出します。
内容は、
「よく人の話を聞き、違う意見にも耳を傾けなさい」
というものですが、そのあと。
「人間とはわかっていても、そうはできないものだ、でもね」
とつづき、さらに、その中でも……と、自分の欠点を補ってくれた4名の友人(あるいは部下)たちの名を挙げていきます。
では、順番に4人を見て行きましょう。
徐庶(元直)
人の意見をよく聞き、違う意見にも耳を傾ける、謙虚な人柄であったようです。
諸葛亮伝にあるように、寒門の出身(名のない家の出)で、若いころはかなりやくざな生活を送っていたのですが、ある人の敵討ち事件に巻き込まれ、役人に捕らえられてしまいます。
しかし、慕われていたらしく、取り調べで黙秘をつづけるかれの素性を調べようと、役人が徐庶(当時は徐福と言う名だった)をさらし者にしますが、だれも答えません。
そのうち、仲間がやってきて、徐庶を救出してくれます。
そこで思うところがあったのでしょう、無法者生活から足を洗い、学問をこころざすようになるのです。
諸葛亮伝には「人の気持ちをよく汲んで行動し」とありますから、思いやり深い人物でもあったようです。
孔明は後年においても、魏へ降った徐庶のことを気にしつづけました。
董和(幼宰)
もとは劉璋の家臣で、のちに孔明の片腕として左将軍府で才能を発揮しました。
劉璋時代には、奢侈に耽り、民をかえりみない蜀の豪族たちに、規律で立ち向かった人物です。
自ら率先して倹約をし、身分を越えた行為を厳しく禁止しました。
しかし豪族たちに煙たがられ、左遷されそうになっていしまいます。
すると、それを聞きつけた数千の民が劉璋のもとへ押しかけて、董和の留任を求めました。
これにおどろいた劉璋は、2年間の任期延長を認めます。
のち、劉備が蜀をとると、招聘されて孔明とともに働きます。
仕事ぶりは丁寧で、何度も物事をくりかえし検討するタイプだった様子。
いつも言いたいことを遠慮なくはっきり言える人物だったようで、孔明も、そういう明快な人柄を慕っていたようです。
崔鈞(州平)
徐庶とおなじく荊州での孔明の大事な友人のひとりです。
かれは父親が銭で官位を買ったがために、「銅臭」がする、つまり金の匂いのするやつ、といってバカにされていました。
無法者だった徐庶と、父親のせいではみだし者あつかいの崔州平と、そして早くに父と叔父を亡くした徐州からの避難民孔明と。
かれらは、互いに孤独の辛さをよく知っていました。
だからこそ、互いに助け合い、学問にはげみ、人格を磨くことで、世間をあっと言わせてやろうと思っていたかもしれません。
崔州平も遠慮ない人物で、よく孔明の欠点を指摘してくれたそうです。
胡済(偉度)
義陽の人で、孔明の主簿。
しかし、この董和伝以外では、董和の息子の董允伝にちらっと名前が出てくるくらいで、詳しい事績が伝わっていません(注釈に経歴が記載されているだけ)。
董和の息子の董允、そして親友の費禕とともに、外に馬車でドライブしようとしていた、という話があるので、董和よりも、董允らのほうに年が近かったのでしょう。
胡済は、孔明にたびたび諫言してあやまりを止めたそうで、特別に名前が挙がっているところを見ると、かなり重要な決定にかかわったこともあるのでしょう。
孔明は、かれらに深い感謝をもっていたようで、さいごにこう結んでいます。
「わたしの性質は暗愚であり、すべてを受け入れることはできなかったけれども、しかしこの四人とは終始気が合った。
これもやはり、かれらの直言をためらわない態度によるものである」
と。
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