奥様はティーンエージャー
孫夫人というと、京劇の影響で、「孫尚香」という名前が広まっているようです。
史実の孫夫人の名は伝わっていません。
十代で、兄の孫権の命令にしたがい、劉備の妻になりました。
彼女の生い立ちは、といいますと。
結婚時に十七か十八くらいだったとすると、一歳くらいのときにお父さんの孫堅が亡くなって、九歳くらいのときにお兄さんの孫策が亡くなっています。
つまり、お父さんと一番上のお兄さんという庇護者を幼いころに亡くしているというわけです。
これでもし、劉備と仲が良ければ、ファザコンだったかもしれない、なんて結論を足せるのですが、そうは問屋が卸さなかったようです。
劉備が孫夫人に会いに行くたび、彼女が武装させた侍女たちが百名も待ち受けているので、さすがの劉備も戦々恐々としていたとか。
40歳近い年の開きのある男性に嫁いだ孫夫人の本心はどうだったのか?
武装させた侍女を待機させているあたり、
「会いたくない」
アピールだったように感じられませんか?
孫夫人はどんな女性?
三国志・蜀書の法正伝に記載があります。
「才気と剛勇において、兄たちの面影があった」
孫策と孫権に似た性格だったようです。
容姿についてはいっさい記載がありませんので、美人かどうかは不明です。
さらに趙雲伝には、
「孫権の妹であることを鼻にかけ驕慢で、おおぜいの呉の官兵を率いて、したい放題をして法を守らなかった」
とあります。
劉備は若い奥さんをもらっても、落ち着かず、喜べなかったことでしょう。
生真面目な趙雲に奥向きを取り締まらせますが、あまり功をなさなかったようです。
とうとう別居!
唐代に書かれた李吉甫の「元和郡県志」によると、
「孫夫人の城は、セン陵城(センは尸の下に子が三つ)の東から五里の場所に位置している」
「互いに疑いあい、別のところに城を立てて住んでいた」
とあります。
もともとあった城を改装したのか、新築したのかはわかりませんが、別居の手間を考えても、劉備と孫夫人の仲は険悪だったといわざるをえません。
もう顔も見たくない! というほどだったのでしょう。
規律を守らないというのは孔明も嫌うパターンですし、趙雲の言うことも聞かないし、これでは孫夫人も孤立せざるをえません。
孫権が帰って来いといったとき、その提案に飛びついたのは仕方のないことだったのかもしれません。
その後は……わからない!
孫夫人は兄の提案をひそかに受けると、阿斗をさらうようにして長江を下ろうとします。
気付いた趙雲が張飛とともに、阿斗を奪還。
しかし、孫夫人は呉へ帰ってしまいます。
母親が病気だと騙されていた、というのはフィクションです。
別居状態の若い奥さんに劉備がさんざん悩んでいたことは、趙雲も張飛もよく知っていたでしょう。
ですから、帰っていくなら仕方ない、と思い、彼女の意志のままにしたのかもしれません。
その後の孫夫人がどうなったか?
三国志演義ですと、劉備が死んだ後に自殺した、というエピソードがあります。
しかし、実際は「わからない」です。
再婚したのか、あるいは独り身で過ごしたのか。
まさに、煙のように歴史から消えてしまった孫夫人。
十代のわがままな女の子が、右も左もわからないなかで40歳以上の男性に嫁がされ、トラブルメーカーとして厄介者あつかいされたあげくに、国に帰らざるを得なくなる。
考えてみると、かわいそうですね。
ただ、歴史は、幸せな話というものをあまり残さない傾向にあるので、案外、孫夫人は帰国後、たのしく暮らしたのかもしれません。
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