張昭と孫権
西暦200年に孫策が暗殺されてしまったことは、江東におおきな衝撃を与えました。
後を託された張昭にしても、歯がゆい思いだったでしょう。
なぜご主君は、ひとりで行動したりしたのだろう、と。
ことばは悪いですが、若さゆえの軽率さゆえに、孫策は命を落とさざるを得なかったのです。
兄を突然亡くした孫権は、しばらく呆然自失。
これではいかんと、張昭は涙をこらえて、孫権にしっかりするよう喝を入れます。
「泣いている場合ではございませぬ、先人の事業を立派に引き継ぎなされ」(意訳)
といって孫権を馬に乗せ、出陣させました。
そうすることで、人々に孫策はいなくなってしまったけれど、立派な若き英雄がここにいるぞと示すため。
それは成功し、孫権は立ち直って、江東の新しき英雄として名を馳せるようになるのです。
滑り出しは上々! のはずでした。
ただし、若く颯爽として見える孫権、ちょいとばかり猜疑心の強い性格。
孫策が臨終のさい、
「弟の権にその才覚がなければ、あなたが政権を執ってくれ」
と張昭に言ったことが、頭にずっと残っていたのではと思われます。
こういう遺言を残してはいけない典型例となるわけですが、さて、孫権と張昭の、長い暗闘がここからはじまる……!
戦争は、ダメ、絶対!
さて、孫権が政治を執るようになってからほどなくしての西暦208年、曹操がいよいよ江東を狙って南下してきました。
三国志演義のいちばんの見せ所、赤壁の戦いです。
ここで、張昭は孫権に降伏をうながします。
というのも、張昭はもともと江東の人ではないうえ、孫氏の政権より漢王朝にまだ権威を感じている古いタイプ。
漢王朝の皇帝を奉じている曹操に対し、畏怖の気持ちもあったかもしれません。
それに、曹操の家臣たちとも文通をしていたので、曹操軍の、かなり正確な「すごさ」を知っていた様子。
こりゃかなわん、とまで思ったかどうかわかりませんが、降伏すべしと頑強に主張し、孫権を悩ませました。
この状況をひっくり返したのが、魯粛と周瑜、そして、魯粛が連れてきた孔明です。
魯粛の基本政策は、
「曹操は強大で、おそらく漢王朝復興などはしないだろう。それならば、天下を三分して、状況を見るべきで、そのためには劉備の力が必要だ」
というものでした。
赤壁の戦いについては、みなさん結果はご存知のとおり。
周瑜の大活躍によって、孫権は大勝利を得るのです、
が、しかし一方で、孫権にとっては、張昭らがじつは心から自分を支持してないのだ、という事実もあきらかになってしまいました。
じわじわと張り巡らせられる、不和の伏線! どうなる、孫権と張昭?
虎狩りも、ダメ、絶対!
張昭は、孫権の政権が盤石になったあとも、孫権にかんたんには心腹しませんでした。
孫権の素行が、どうも気に入らなかったようです。
孫権は出かけるたびに虎を狩ることを楽しみにしていました。
あるとき、虎が反撃してきて、突進してきたあげくに孫権の馬の前足に足をかけた、ということがありました。
張昭としては、脳裏に孫策の死があったでしょう。
あまりのことにびっくりして、軽率な真似はおよしなさい、と諫言するのですが、孫権はどこ吹く風。
表面では、すまなかったと謝るのですが、その後も虎狩りをやめません。
どころか虎狩り専用の車まで使って狩猟にでかけ、張昭をカリカリさせました。
また、大酒のみだった孫権に、張昭はたびたび諫言をしました。
張昭は重鎮ですし、つねに孫策の死の衝撃が頭にあったのでしょう。
自分が諫言しなければ、だれがするのだ、という気負いもあったにちがいありません。
しかし、だんだんと地盤を確実なものにし、やがては皇帝にまでなっていく孫権にとって、かなしいことに、張昭はどんどん煙たい存在になっていくのでした……
後編に続く!
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