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2021年6月28日月曜日

万里橋のものがたり~蜀漢の費禕から中唐の薛濤まで

 万里橋とは


万里橋とは、成都の南郊外を流れる錦江にかかる橋でした。

長江下流への旅の出発点であり、船着き場がすぐそばにあったため、多くの旅人が橋を通って長い船旅をはじめました。

交易でにぎわっていたのでしょう、船着き場の周辺には南市ができていて、当時は成都でも有数の賑わいをみせる繁華街だったそうです。


そも、万里橋といわれるようになったゆえんは、三国時代にあります。

孫呉への使者へ向かうことになった費禕(文偉)を、孔明が見送りました。

盛大な壮行会が開かれたものと思います。

とはいえ、当時の情勢からすれば、孫呉へ向かう旅は危険極まりないものでした。

生きて帰ってこられるかわからない旅を前に、

「万里の路は、この橋からはじまらん」

と費禕が嘆いたことから、橋の名がついた、という説があります。


(諸説あります。

唐の玄宗が安禄山の乱で蜀に落ち延びてきたさいに、左右の供に橋の名を聞いたところ、「万里橋」との返事。

玄宗は、

「そういえば開元の末に、僧の一行が予言して、『二十年後国難があり、陛下は万里の外で巡遊されておられることでしょう』と言ったが、このことだったのだなあ」

と嘆息した、という話から橋の名がついた、という説もあります。

しかし、すでに「万里橋」と答えられた、ということは、費禕が最初につぶやいた言葉がもとで橋の名がついた、と考えるのが自然のような気がします)


ググって画像を見たところ、現在の万里橋あたりは近代化が進み、当時の華やかさは影を潜めているように見えました。

費禕だけではなく、おそらく蜀を滅ぼし、勢いに乗った晋の軍も、ここから長江を下って呉へ向かったのではないでしょうか。

さまざまな思惑を抱えた人々を橋は見つめてきたわけです。


成都曲


ここで漢詩をひとつご紹介。

中唐の張籍の詩です。


「成都曲」

錦江近西 煙水緑にして

新雨山頭 茘枝熟す

万里橋辺 酒家多く

遊人 誰(た)が家に向かって宿るを愛さん


(訳)

錦江の西側には、もやが緑がかっていて

雨上がりの山すそにはライチが熟れている。

万里橋のあたりには酒家がたくさんあり

旅人は、どの店を気に入って上がり込んでいくのだろう。


張籍はあざなを文昌といい、中唐に官吏として生きた人物です。

位はさほど上がらなかったものの、文才は抜群で、韓愈の門下として、そして白居易の親友として活躍しました。

眼病を患うほど貧窮していたとのことですが、人柄は剛直かつ思いやりのあるものだったそうです。

政治を批判し、人民の苦しみをうたった詩をおおく残しましたが、「成都曲」では、華やかだったろう万里橋界隈の様子を率直にうたいあげています。


女校書・薛涛の生涯


さて、その張籍らとも親交のあった才女が万里橋そばにおりました。

その名を薛濤。あざなを洪度という妓女です。

とはいえ、もとは長安の士族の娘でした。

少女の頃に父親の赴任先である蜀にやってきました。

玄宗と楊貴妃のエピソードで名高い安禄山の乱に巻き込まれたという説があります。

その父が亡くなると、たちまち困窮し、家庭を助けるため、妓女になり花柳界デビューします。

学識があり、明敏で詩心に富んでいた美女だったので、たちまち売れっ子になり、多くの詩人の愛顧を受けたと言われています。


女校書という肩書は、彼女のみごとな才能を愛した節度使の韋皐がそう呼びだしたことからついたもので、彼女以降、妓女のことを「校書」と呼ぶようになりました。

白居易や張籍、王建、元槇などの錚々たる面々が薛濤のお客さんだったのですが、とくに元槇とは気が合ったようです。

元槇は、若くして白居易とともに名をあげ、長安では「元才子」と呼ばれて敬われていたとか。

三十一の時に薛濤と出会いました。そのとき、薛濤は四十二。

一回りほどちがったわけですが、元槇は薛濤の学識の高さに舌を巻き、彼女をほめたたえた美しい詩も残しています。

薛濤の詩は、いわばお客さんをよいしょする詩が多いのですが、職業柄、仕方がなかったことでしょう。


なにをやってもさまになる


薛濤は晩年、杜甫も暮らした浣花渓で静かに暮らします。

浣花渓は静かな農村に流れる川で、錦江の上流にあたります。

そこでおだやかな老後を過ごしつつ、井戸の水で紙をすいて深紅色の詩箋を作っていたそうです。

その紙は評判となり「薛濤箋」と呼ばれています。

いまでも成都の名物だそうで、これまたググってみました。

すると、深紅色の芙蓉の花をもとに作る紙だそうで、さらに雲母をちりばめてあるという、センスのかたまりのような紙でした。

写真で見ましたが、思ったより濃い紅色です。

これに美しい字で美しい詩文が書かれていたら、もうそれだけで、詩を書いた人のことを好きになってしまいそうです。

薛濤が紙をすくために使った井戸は、いまでも成都に残っています。


薛濤の悲しくも美しい世界


まさにドラマのヒロインのような薛濤の人生ですが、彼女は生涯、だれにも嫁ぎませんでした。

薛濤のこころのうちを覗くのは容易ではありませんが、こんな彼女の詩が残っています。


郷思

峨眉山下 水 油の如し

憐れむ わが心の 繋がざる船に同じきを

何れの日か 片帆(へんぽん) 錦浦を離れ

櫂声 斉唱して中流を発せん


(訳)

峨眉山の下、川は油をひいたようにおだやかに流れゆく

いたわしいことだ、わが身は岸に繋がれない舟とおなじであてどもない

いつになったなら、わたしは一艘の舟にのって錦江のほとりの船着き場から発し、

船頭たちの櫂をこぐかけ声がいっせいにひびくなか、川の真ん中を進んでいくことができるだろうか


安禄山の乱にまきこまれ、故郷を離れざるを得なくなり、その後、父とも死別。

家を助けるために花柳界に身を投じた薛濤の人生は華やかだったでしょうが、彼女は本心では、一抹の寂しさを抱えいたかもしれません。

郷思の最後の二行は、いつかなつかしい故郷・長安に帰るときには、だれか自分を愛してくれる人と一緒に舟に乗っているのでは、という夢想がこめられていたように思えます。

そのとき、船頭たちが祝祭の声をあげて、彼女たちを見送ってくれるのでは、と。


蜀漢の費禕からはじまった万里橋のおはなし。

今日もおそらく、橋はそこにあって、多くの人のドラマを見つめているはずです。

2021年6月13日日曜日

孫権VS張昭 炎の対決 その顛末! 後編

 やっぱり張公でないと


あるとき、張昭は孫権の機嫌を大きく損ねてしまいました。

そのため、目通りができなくなってしまったのですが、かれの不在中に、たまたま蜀漢の使者がやってきたのです。

この使者の名前は不明ですが、孫権らのまえで、おおいに自国の道義的なすばらしさを吹聴して、孫呉の人々を悔しがらせました。

孫権は嘆きます。

「張公がここにいたら、あの使者を屈服させられずとも、言い返すくらいはできただろう。そしたらあんなに威張られることもなかったのになあ」

そして、さっそく翌日には、隠居していた張昭に使者を送り、宮廷に帰ってくるようにと要請したのでした。

張昭は宮廷にやってくると、皇帝の機嫌を損ねたこと、長期にわたり不在だったことなどを陳謝します。

そして、自分は孫権のお母さんである呉氏と孫策により孫権を託されたことを述べ、

「わたしは臣下としての本分を尽くし、わたくしめが世を去ったのちにも、わたくしめのことが世の人の口に伝わってほしいと思ってきました。

しかし、わが短慮のため、それもかなわず、このまま死ぬかと覚悟を決めていたとき、思いもかけずふたたび御目通りがかなうこととなりました。

わたしが耳の痛いことをいうのは、衷心から申し上げているのです、御機嫌取りのような真似は、わたしにはできません」(意訳)

と孫権を仰いで言いました。

孫権はそれを聞き、自分も反省し、張昭に陳謝したといいます。

雨降って地固まる。

とはいえ、激動の時代は、むしろ両者を引き裂いていくのでした……


公孫淵をめぐる攻防


西暦232年、曹魏で、曹植がひっそりと息を引き取ったころのおはなし。

遼東に根を張っていた公孫淵から、服属したいという思いもかけない申し出がありました。

孫権はこれを聞いておおよろこび。

領土が増える、魏に対抗するのに有利になる、という喜びもあったでしょうが、自分の威光が遼東にまで及んだという喜びもおおきかったことでしょう。

孫権はさっそく張弥(ちょうび)、許晏(きょあん)という二人を使者に送り、公孫淵に九錫さずけ、燕王に封じます。

しかし、張昭らはこれに大反対。

公孫淵という人物、自分の叔父さんを脅迫して遼東太守の座から引きずり下ろし、さらに魏の明帝から官位もさずかっている、したたか者。

どうも信用できません。

しかし、反対意見に孫権は耳を貸しません。

どころか、かたわらにあった刀をとって、張昭を怒鳴りました。

「呉国の士人は、宮廷にはいればわたしを拝するが、外にあってはあなたを拝している。

こうしたことが起こるのも、わたしがあなたに最大限の礼を尽くしているからだ。

それなのに、あなたはわたしをしばしば皆の前でやりこめる。

わたしはあなたのそういう態度が、国を誤らせることになるのではと、いつも心配しているのだ」

孫権の本音でしょう。事実、士大夫たちは、張昭の味方をすることが多かったのです。

張昭はそれを聞き、

「あなたのお母さまからあなたを託されたからこそ、直言をするのでございます」

と滂沱と涙を流しました。

それを見た孫権、さすがに感極まり、刀を投げ捨てて、二人でいっしょに涙を流したということです。


そんな感動的な場面があったにもかかわらず、結局孫権は、そのまま、使者を遼東に送ってしまいます。

腹を立てた張昭は、そのまま病気だと偽って、屋敷にひきこもってしまいました。


炎の顛末


孫権は張昭が仮病を使っていることを見抜いていました。

そこで張昭の屋敷の門を、土で固めさせてしまいます。

宮廷にこないのなら、どこにも出てくるな、という意志表示です。

張昭も負けてはいません。

自分の門を、内側からも盛り土で固めて、ますます引きこもります。


そんな争いをしているただ中、公孫淵に派遣されていた張弥と許晏は、気の毒にも殺されてしまいました。

やはり、公孫淵は食えないやつだったのです。

張昭が正しかった!

反省した孫権は、何度も謝罪を張昭に伝えますが、張昭はすっかり頑なになっていて、まったく耳を貸そうとしません。

孫権が自ら足を運んで、屋敷内にいる張昭に声をかけても、効果なし。

出てくるどころか、病気ですからと、ますます引きこもってしまいました。


腹を立てた孫権は、思い切った行動に出ます。

なんと、張昭の門に火をかけた!

ぼうぼうと燃える炎は、屋敷のなかにいる張昭からも見えたでしょう。

きな臭いにおいと、白煙のけむたさに悩まされつつも、張昭は頑として表に出てきません。

さすがにやりすぎだと思ったのか、我に返った孫権は門の火を消させます。

そして、ずっと門の前から立ち去らず、張昭が出てくるのを待ちました。

待ち続ける孫権に、さすがの張昭の息子たちが気兼ねして、張昭を抱えるようにして表に引っ張り出し、孫権に目通りさせました。

孫権は張昭を一緒に車に乗せて宮廷にもどると、張昭に平謝り。

その場ではなく、宮廷に連れて帰って、わざわざ謝ったというのは、群臣たちの前で謝ったというのと同然です。

深く反省した態度を見せた孫権に対し、張昭はしぶしぶ、また宮廷に顔を出すことを約束したのでした。


張昭は、張弥らが殺害された事件の3年後、236年に亡くなりました。

享年八十一。

呉の町のひとびとは、かれを「仲父(ちゅうほ)」と呼んでいたそうです。

斉の桓公が自身を覇者に押し上げてくれた管仲をそう呼んでいました。

孫権は張昭を真の恩人と認めていたでしょうか。

孫権は張昭の葬儀にあたり、素服でのぞんだという文言があるものの、目立って「嘆いた」という文言は伝わっていません。

とはいえ、孫権にとっては、張昭は乗り越えがたい大きな壁であり、実父の孫堅とはまたちがった意味で、「父」だったのではと思います。


2021年6月12日土曜日

孫権VS張昭 炎の対決 その顛末! 中編

 

煙たい関係


もともと猜疑心が強い孫権なので、張昭が赤壁で降伏を説いたことは、かれへの不信感を決定的なものにしてしまいました。

のち、孫権が群臣の前で、赤壁での戦いを勝利に導いた周瑜や魯粛を褒めたたことがありました。

「かれらがいたから、いまのわたしがあるのだ」

張昭はそれを聞き、無邪気に賛同のことばを述べようとしたのですが、孫権の次のことばを聞いて、固まってしまいます。

曰く、

「張昭の言うことをきいていたなら、いまごろ人さまから食べ物を恵んでもらう立場になっていただろう」

ショックを受けた張昭。突っ伏して、冷や汗を流したそうです。

孫権としてはしてやったり、といったところでしょう。

しかし張昭は負けません。

かれにはかれなりの正義があり、気骨もありました。

張昭は軽率さのある孫権のふるまいをいさめ、政治を動かし続けました。

とはいえ、孫権はそれを感謝する気持ちより、あいつはうるさいやつ、と思う気持ちのほうが強かったようです。


張昭が煙たくてたまらない孫権ですが、その張昭は、厚いまごころをもって政治にあたったため、士大夫を中心に高い支持を受けていました。

それも孫権には面白くない原因です。

君主の座にあるのだから、張昭を政権から外す、ということも考えたでしょう。

しかし、孫権の脳裏には、名家中の名家であった陸一族を攻撃して、江東の支持を失いかけた兄・孫策の失敗があったのかもしれません。

同じ轍を踏んで、政権を不安定にさせるわけにはいきません。


丞相の地位をめぐって


緊張感のあるまま時がたち、孫権は関羽のかたき討ちにやってきた劉備を撃退ののち、うまく立ち回って、曹魏からも自立します。

そこで丞相を選ぼう、ということになったのですが、さて、だれがよいか、と家臣たちにはかると、みな言います。

「張子布どのがよろしいかと」

みなの意見なんか聞くんじゃなかった、と思ったかどうか。

聞きたくなくても聞かざるを得ない、その名を張昭。

しかし孫権は、それをはねのけ、孫邵(そんしょう)を丞相につけました。

その理由が苦しい。

「現在の多事にあたって、百官のとりまとめにあたる者の責任は重大だ。だからこそ、張昭を丞相の地位につけるのは、かれを優遇することにならない」

つまり、

「張昭が丞相としてうまくやれたらいいけれど、そうじゃなかったら、名誉に傷がつく、そういう危険もあるんだよ。だから、あえて地位につかないほうがかれのためじゃないか」

ということ。


しかし、張昭は面白くなかったことでしょう。

張昭より年下の孫邵は、孫権の一族ではありません。

なんと、劉備の家臣である孫乾の親戚。

しかも詳しい事績がわからない(呉書のなかに伝が立ってない)人物でもあります。

なんで丞相という高い地位にいながら、その事績が伝わっていないのかについては、派閥争いの余波らしいのですが、ややこしいので、ここでは割愛します。


孫邵はしかし、すぐに亡くなってしまったので、また新しい丞相が必要になりました。

孫権は家臣たちに、また尋ねます。

「だれがよかろう」

答えは決まっています。

「張子布どの!」

しかし、こんどは孫権は練った答えを言いました。

「わたしは張昭に地位を与えるのを惜しんでいるわけではない。ただ、丞相の地位というのは仕事が多く、しかもあの人は性格が剛直だから、意見が通らなければ、感情的な行き違いがおこるだろう。かれのためを思えばこそ、丞相の地位につけないのだ」

思いやりを示しているように聞こえますが、

「張昭の性格からすれば、なにかあったときに感情的になって、仕事が止まるよ。それじゃあ困るでしょ」

とも言っている。

家臣たちは思い当たる節があったのでしょう。

孫権を論破できるものはおらず、顧雍(こよう)が丞相になりました。

張昭、またしてもガッカリ。


しかし、一方で、孫権は期待の皇太子・孫登の学友に、張昭の息子・張休を選ぶなど、配慮も見せていました。

ですが、この出来の良かった皇太子は、早逝してしまい、孫呉を大混乱に陥れた二宮事件につながっていくのですが、それについては、また別の機会に。

それよりも、さらに抜き差しならぬ事態が起こってしまい、孫権と張昭の間は、険悪になってしまうのです。

さて、これから二人はどうなってしまうのか?


後編につづく……

2021年6月9日水曜日

孫権VS張昭、炎の対決、その顛末! 前編


 張昭と孫権


西暦200年に孫策が暗殺されてしまったことは、江東におおきな衝撃を与えました。

後を託された張昭にしても、歯がゆい思いだったでしょう。

なぜご主君は、ひとりで行動したりしたのだろう、と。

ことばは悪いですが、若さゆえの軽率さゆえに、孫策は命を落とさざるを得なかったのです。

兄を突然亡くした孫権は、しばらく呆然自失。

これではいかんと、張昭は涙をこらえて、孫権にしっかりするよう喝を入れます。

「泣いている場合ではございませぬ、先人の事業を立派に引き継ぎなされ」(意訳)

といって孫権を馬に乗せ、出陣させました。

そうすることで、人々に孫策はいなくなってしまったけれど、立派な若き英雄がここにいるぞと示すため。

それは成功し、孫権は立ち直って、江東の新しき英雄として名を馳せるようになるのです。

滑り出しは上々! のはずでした。

ただし、若く颯爽として見える孫権、ちょいとばかり猜疑心の強い性格。

孫策が臨終のさい、

「弟の権にその才覚がなければ、あなたが政権を執ってくれ」

と張昭に言ったことが、頭にずっと残っていたのではと思われます。

こういう遺言を残してはいけない典型例となるわけですが、さて、孫権と張昭の、長い暗闘がここからはじまる……!


戦争は、ダメ、絶対!


さて、孫権が政治を執るようになってからほどなくしての西暦208年、曹操がいよいよ江東を狙って南下してきました。

三国志演義のいちばんの見せ所、赤壁の戦いです。

ここで、張昭は孫権に降伏をうながします。

というのも、張昭はもともと江東の人ではないうえ、孫氏の政権より漢王朝にまだ権威を感じている古いタイプ。

漢王朝の皇帝を奉じている曹操に対し、畏怖の気持ちもあったかもしれません。

それに、曹操の家臣たちとも文通をしていたので、曹操軍の、かなり正確な「すごさ」を知っていた様子。

こりゃかなわん、とまで思ったかどうかわかりませんが、降伏すべしと頑強に主張し、孫権を悩ませました。

この状況をひっくり返したのが、魯粛と周瑜、そして、魯粛が連れてきた孔明です。

魯粛の基本政策は、

「曹操は強大で、おそらく漢王朝復興などはしないだろう。それならば、天下を三分して、状況を見るべきで、そのためには劉備の力が必要だ」

というものでした。

赤壁の戦いについては、みなさん結果はご存知のとおり。

周瑜の大活躍によって、孫権は大勝利を得るのです、

が、しかし一方で、孫権にとっては、張昭らがじつは心から自分を支持してないのだ、という事実もあきらかになってしまいました。

じわじわと張り巡らせられる、不和の伏線! どうなる、孫権と張昭?


虎狩りも、ダメ、絶対!


張昭は、孫権の政権が盤石になったあとも、孫権にかんたんには心腹しませんでした。

孫権の素行が、どうも気に入らなかったようです。

孫権は出かけるたびに虎を狩ることを楽しみにしていました。

あるとき、虎が反撃してきて、突進してきたあげくに孫権の馬の前足に足をかけた、ということがありました。

張昭としては、脳裏に孫策の死があったでしょう。

あまりのことにびっくりして、軽率な真似はおよしなさい、と諫言するのですが、孫権はどこ吹く風。

表面では、すまなかったと謝るのですが、その後も虎狩りをやめません。

どころか虎狩り専用の車まで使って狩猟にでかけ、張昭をカリカリさせました。

また、大酒のみだった孫権に、張昭はたびたび諫言をしました。

張昭は重鎮ですし、つねに孫策の死の衝撃が頭にあったのでしょう。

自分が諫言しなければ、だれがするのだ、という気負いもあったにちがいありません。

しかし、だんだんと地盤を確実なものにし、やがては皇帝にまでなっていく孫権にとって、かなしいことに、張昭はどんどん煙たい存在になっていくのでした……


後編に続く!

2021年6月8日火曜日

孔明が心から感謝していた4人の人物。

 董和伝から見る孔明の友人たち


三国志・蜀書の董和伝に、孔明ファンなら、「お」と思う記述があります。

孔明が蜀漢の丞相になったのち、おそらく董和が亡くなったころ、部下の役人たちに命令を出します。

内容は、

「よく人の話を聞き、違う意見にも耳を傾けなさい」

というものですが、そのあと。

「人間とはわかっていても、そうはできないものだ、でもね」

とつづき、さらに、その中でも……と、自分の欠点を補ってくれた4名の友人(あるいは部下)たちの名を挙げていきます。

では、順番に4人を見て行きましょう。


徐庶(元直)


人の意見をよく聞き、違う意見にも耳を傾ける、謙虚な人柄であったようです。

諸葛亮伝にあるように、寒門の出身(名のない家の出)で、若いころはかなりやくざな生活を送っていたのですが、ある人の敵討ち事件に巻き込まれ、役人に捕らえられてしまいます。

しかし、慕われていたらしく、取り調べで黙秘をつづけるかれの素性を調べようと、役人が徐庶(当時は徐福と言う名だった)をさらし者にしますが、だれも答えません。

そのうち、仲間がやってきて、徐庶を救出してくれます。

そこで思うところがあったのでしょう、無法者生活から足を洗い、学問をこころざすようになるのです。

諸葛亮伝には「人の気持ちをよく汲んで行動し」とありますから、思いやり深い人物でもあったようです。

孔明は後年においても、魏へ降った徐庶のことを気にしつづけました。


董和(幼宰)


もとは劉璋の家臣で、のちに孔明の片腕として左将軍府で才能を発揮しました。

劉璋時代には、奢侈に耽り、民をかえりみない蜀の豪族たちに、規律で立ち向かった人物です。

自ら率先して倹約をし、身分を越えた行為を厳しく禁止しました。

しかし豪族たちに煙たがられ、左遷されそうになっていしまいます。

すると、それを聞きつけた数千の民が劉璋のもとへ押しかけて、董和の留任を求めました。

これにおどろいた劉璋は、2年間の任期延長を認めます。


のち、劉備が蜀をとると、招聘されて孔明とともに働きます。

仕事ぶりは丁寧で、何度も物事をくりかえし検討するタイプだった様子。

いつも言いたいことを遠慮なくはっきり言える人物だったようで、孔明も、そういう明快な人柄を慕っていたようです。


崔鈞(州平)


徐庶とおなじく荊州での孔明の大事な友人のひとりです。

かれは父親が銭で官位を買ったがために、「銅臭」がする、つまり金の匂いのするやつ、といってバカにされていました。

無法者だった徐庶と、父親のせいではみだし者あつかいの崔州平と、そして早くに父と叔父を亡くした徐州からの避難民孔明と。

かれらは、互いに孤独の辛さをよく知っていました。

だからこそ、互いに助け合い、学問にはげみ、人格を磨くことで、世間をあっと言わせてやろうと思っていたかもしれません。

崔州平も遠慮ない人物で、よく孔明の欠点を指摘してくれたそうです。


胡済(偉度)


義陽の人で、孔明の主簿。

しかし、この董和伝以外では、董和の息子の董允伝にちらっと名前が出てくるくらいで、詳しい事績が伝わっていません(注釈に経歴が記載されているだけ)。

董和の息子の董允、そして親友の費禕とともに、外に馬車でドライブしようとしていた、という話があるので、董和よりも、董允らのほうに年が近かったのでしょう。

胡済は、孔明にたびたび諫言してあやまりを止めたそうで、特別に名前が挙がっているところを見ると、かなり重要な決定にかかわったこともあるのでしょう。


孔明は、かれらに深い感謝をもっていたようで、さいごにこう結んでいます。

「わたしの性質は暗愚であり、すべてを受け入れることはできなかったけれども、しかしこの四人とは終始気が合った。

これもやはり、かれらの直言をためらわない態度によるものである」

と。

2021年6月7日月曜日

劉備と孫夫人の夫婦仲について考える。

奥様はティーンエージャー

 

孫夫人というと、京劇の影響で、「孫尚香」という名前が広まっているようです。

史実の孫夫人の名は伝わっていません。

十代で、兄の孫権の命令にしたがい、劉備の妻になりました。

彼女の生い立ちは、といいますと。

結婚時に十七か十八くらいだったとすると、一歳くらいのときにお父さんの孫堅が亡くなって、九歳くらいのときにお兄さんの孫策が亡くなっています。

つまり、お父さんと一番上のお兄さんという庇護者を幼いころに亡くしているというわけです。

これでもし、劉備と仲が良ければ、ファザコンだったかもしれない、なんて結論を足せるのですが、そうは問屋が卸さなかったようです。


劉備が孫夫人に会いに行くたび、彼女が武装させた侍女たちが百名も待ち受けているので、さすがの劉備も戦々恐々としていたとか。

40歳近い年の開きのある男性に嫁いだ孫夫人の本心はどうだったのか?

武装させた侍女を待機させているあたり、

「会いたくない」

アピールだったように感じられませんか?


孫夫人はどんな女性?


三国志・蜀書の法正伝に記載があります。

「才気と剛勇において、兄たちの面影があった」

孫策と孫権に似た性格だったようです。

容姿についてはいっさい記載がありませんので、美人かどうかは不明です。

さらに趙雲伝には、

「孫権の妹であることを鼻にかけ驕慢で、おおぜいの呉の官兵を率いて、したい放題をして法を守らなかった」

とあります。

劉備は若い奥さんをもらっても、落ち着かず、喜べなかったことでしょう。

生真面目な趙雲に奥向きを取り締まらせますが、あまり功をなさなかったようです。


とうとう別居!


唐代に書かれた李吉甫の「元和郡県志」によると、

「孫夫人の城は、セン陵城(センは尸の下に子が三つ)の東から五里の場所に位置している」

「互いに疑いあい、別のところに城を立てて住んでいた」

とあります。

もともとあった城を改装したのか、新築したのかはわかりませんが、別居の手間を考えても、劉備と孫夫人の仲は険悪だったといわざるをえません。

もう顔も見たくない! というほどだったのでしょう。

規律を守らないというのは孔明も嫌うパターンですし、趙雲の言うことも聞かないし、これでは孫夫人も孤立せざるをえません。

孫権が帰って来いといったとき、その提案に飛びついたのは仕方のないことだったのかもしれません。


その後は……わからない!


孫夫人は兄の提案をひそかに受けると、阿斗をさらうようにして長江を下ろうとします。

気付いた趙雲が張飛とともに、阿斗を奪還。

しかし、孫夫人は呉へ帰ってしまいます。

母親が病気だと騙されていた、というのはフィクションです。

別居状態の若い奥さんに劉備がさんざん悩んでいたことは、趙雲も張飛もよく知っていたでしょう。

ですから、帰っていくなら仕方ない、と思い、彼女の意志のままにしたのかもしれません。


その後の孫夫人がどうなったか?

三国志演義ですと、劉備が死んだ後に自殺した、というエピソードがあります。

しかし、実際は「わからない」です。

再婚したのか、あるいは独り身で過ごしたのか。

まさに、煙のように歴史から消えてしまった孫夫人。

十代のわがままな女の子が、右も左もわからないなかで40歳以上の男性に嫁がされ、トラブルメーカーとして厄介者あつかいされたあげくに、国に帰らざるを得なくなる。

考えてみると、かわいそうですね。

ただ、歴史は、幸せな話というものをあまり残さない傾向にあるので、案外、孫夫人は帰国後、たのしく暮らしたのかもしれません。

2021年6月6日日曜日

劉備に髭がないことをいじったがために、処刑になった張裕の話。

劉備に髭がなかった話


劉備の口周りには、髭がなかったようです。
若いころの話ではありません。
入蜀する直前のエピソードで、劉璋と面会した際に、髭がないことをからわれた、という話があるのです。

当時、すでに劉備は五十代後半。
髭がないと、宦官のようだと揶揄される風潮のあった当時において、髭がない、ということは珍しいことでした。
劉備もこのことを気にしていた様子。
劉備に髭がなかったこと、そのことをからかった猛者と、その末路をお話していきましょう。


入蜀時の張裕のよけいな冗談


髭がなかったとするエピソードは、三国志の蜀書・周羣伝にあります。
周羣とは、蜀の高名な図讖(将来の吉凶を示す神秘的な予言)を解読する人で、当時、かなり名声がありました。
いわば蜀漢版ノストラダムスです。
その周羣より、図讖の術にたけていたとされているのが、張裕、字を南和。
この人は劉璋の時代から周囲の信頼をあつめていたようで、劉備と劉璋が涪で面会したさいにも、その場に同席していました。

張裕には、豊かな髭がありました。
それを見て、劉備がからかいます。
「わしは涿県の育ちだが、家の周りは『毛』という家だらけだった。東西南北、毛だらけで、琢県の令は、『毛家が涿県のまわりをぐるりと(髭のように)取り囲んでおるわい』と言っていたっけ」(意訳でお届け)

この罪のなさそうな冗談に、よせばいいのに張裕が言い返しました。
「むかし上党(じょうとう・蜀の地名)の潞(ろ・役職名)から涿県の令に昇進したものがおりました。その者はすぐにお役目をやめて家に帰ったのですが、ある人がこのひとに手紙を送ったのです。
しかし、宛名をだすとき、はたと困ってしまいました。というのも、宛名に潞の長と書けば、琢の令であった事実を無視することになりますし、琢の令とかけば、その逆です。
そこで、『涿潞君』と記しました」

わかりづらい嫌味です。
要するに、「涿」と「啄」の字が似ていることから「涿」を口にひっかけて、「潞」と「露」をなにもないにひっかけたのです。
両方合わせて「涿潞君」とは、口の周りに毛が全く生えていない、という意味になる、という仕掛け。
劉備はカチンときたようですが、当時はまだお客さんという立場でしたから、ぐっと我慢をしたのです。


張裕の予言


漢中を曹操から争奪するさいに、劉備はみなに戦役の成否を聞きました。
天空の状態から、予言を導く術を知っていた張裕は、
「漢中で争ってはいけません。必ず負けてしまうでしょう」
と予言しました。
一方、同じ術を知っていた周羣のほうは、
「漢中を手に入れることはできましょうが、住民を手に入れることはできないでしょう」
と予言しました。

蓋を開けてみれば、張裕の予言は外れてしまい、漢中争奪戦は勝利。
ただし、住民を手に入れることはできなかったので、周羣がピタリと当てたことになります。
周羣の地位が上がった、と周羣伝にあります。

一方、張裕は、これまたよせばいいのに、ある予言をうっかり人にしゃべってしまいます。
それは、
「庚子の年(西暦220年にあたる)に天下が変わって、劉氏の帝位はおしまいになる。ご主君(劉備)が益州を手に入れてから九年後の寅年と卯年のあいだに、ご主君は失われるであろう」
というもの。
つまり、劉備の寿命を予言してしまったのです。


悲しい末路


衝撃的な張裕の予言!
それをまた、劉備に密告した者がいました。
密告者の名は伝わっていませんが、余計なことをしたものです。

かわいそうな張裕は捕らえられ、「髭をめぐる不遜な言動、漢中争奪戦のときに予言を外した、不吉な予言をした」の三つを理由に、処刑されることになりました。
孔明が、かれのため、減刑の嘆願書を出したのですが、劉備の怒りはおさまりません。
「かぐわしい蘭でも、門に生えたら引っこ抜かねば仕方あるまい」
とは、劉備の言。
かなり怒っているのが伝わってきます。

かくて、張裕は市で処刑されてしまったのでした。
享年は伝わっていません。


しかし予言が当たる……!


しかし、現実では、張裕の予言通りのことがおきました。
ときの帝は曹丕によって帝位を追われて、「劉氏の帝位がおしまい」になりました。
さらに、劉備も寅年と卯年のあいだに崩御。
予言がぴったり当たったのです。
だれもが張裕のことを思い出し、残念に感じたにちがいありません。

周羣伝はおもしろいことに、周羣その人の事績より、張裕の事績のほうが目立つ記述になっています。
さいしょに蜀書を書いた陳寿も、張裕を惜しんだのではないでしょうか。
ちなみに、周羣伝には、張裕は人相術もよくする人だったことが書かれています。
さいごの文章は、
「鏡で自分の顔を見ては、いずれ刑死すると出ている顔相に腹を立て、鏡を地面に叩きつけていた」
と終わっています。

2021年6月5日土曜日

まずは自己紹介!

 みなさん、こんにちは。

牧知花といいます。

仙台在住の同人作家で、主に三国志ものの小説を書いています。

当ブログでは、タイトル通り、歴史に関するさまざまなお話を紹介していきます。

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