万里橋とは
万里橋とは、成都の南郊外を流れる錦江にかかる橋でした。
長江下流への旅の出発点であり、船着き場がすぐそばにあったため、多くの旅人が橋を通って長い船旅をはじめました。
交易でにぎわっていたのでしょう、船着き場の周辺には南市ができていて、当時は成都でも有数の賑わいをみせる繁華街だったそうです。
そも、万里橋といわれるようになったゆえんは、三国時代にあります。
孫呉への使者へ向かうことになった費禕(文偉)を、孔明が見送りました。
盛大な壮行会が開かれたものと思います。
とはいえ、当時の情勢からすれば、孫呉へ向かう旅は危険極まりないものでした。
生きて帰ってこられるかわからない旅を前に、
「万里の路は、この橋からはじまらん」
と費禕が嘆いたことから、橋の名がついた、という説があります。
(諸説あります。
唐の玄宗が安禄山の乱で蜀に落ち延びてきたさいに、左右の供に橋の名を聞いたところ、「万里橋」との返事。
玄宗は、
「そういえば開元の末に、僧の一行が予言して、『二十年後国難があり、陛下は万里の外で巡遊されておられることでしょう』と言ったが、このことだったのだなあ」
と嘆息した、という話から橋の名がついた、という説もあります。
しかし、すでに「万里橋」と答えられた、ということは、費禕が最初につぶやいた言葉がもとで橋の名がついた、と考えるのが自然のような気がします)
ググって画像を見たところ、現在の万里橋あたりは近代化が進み、当時の華やかさは影を潜めているように見えました。
費禕だけではなく、おそらく蜀を滅ぼし、勢いに乗った晋の軍も、ここから長江を下って呉へ向かったのではないでしょうか。
さまざまな思惑を抱えた人々を橋は見つめてきたわけです。
成都曲
ここで漢詩をひとつご紹介。
中唐の張籍の詩です。
「成都曲」
錦江近西 煙水緑にして
新雨山頭 茘枝熟す
万里橋辺 酒家多く
遊人 誰(た)が家に向かって宿るを愛さん
(訳)
錦江の西側には、もやが緑がかっていて
雨上がりの山すそにはライチが熟れている。
万里橋のあたりには酒家がたくさんあり
旅人は、どの店を気に入って上がり込んでいくのだろう。
張籍はあざなを文昌といい、中唐に官吏として生きた人物です。
位はさほど上がらなかったものの、文才は抜群で、韓愈の門下として、そして白居易の親友として活躍しました。
眼病を患うほど貧窮していたとのことですが、人柄は剛直かつ思いやりのあるものだったそうです。
政治を批判し、人民の苦しみをうたった詩をおおく残しましたが、「成都曲」では、華やかだったろう万里橋界隈の様子を率直にうたいあげています。
女校書・薛涛の生涯
さて、その張籍らとも親交のあった才女が万里橋そばにおりました。
その名を薛濤。あざなを洪度という妓女です。
とはいえ、もとは長安の士族の娘でした。
少女の頃に父親の赴任先である蜀にやってきました。
玄宗と楊貴妃のエピソードで名高い安禄山の乱に巻き込まれたという説があります。
その父が亡くなると、たちまち困窮し、家庭を助けるため、妓女になり花柳界デビューします。
学識があり、明敏で詩心に富んでいた美女だったので、たちまち売れっ子になり、多くの詩人の愛顧を受けたと言われています。
女校書という肩書は、彼女のみごとな才能を愛した節度使の韋皐がそう呼びだしたことからついたもので、彼女以降、妓女のことを「校書」と呼ぶようになりました。
白居易や張籍、王建、元槇などの錚々たる面々が薛濤のお客さんだったのですが、とくに元槇とは気が合ったようです。
元槇は、若くして白居易とともに名をあげ、長安では「元才子」と呼ばれて敬われていたとか。
三十一の時に薛濤と出会いました。そのとき、薛濤は四十二。
一回りほどちがったわけですが、元槇は薛濤の学識の高さに舌を巻き、彼女をほめたたえた美しい詩も残しています。
薛濤の詩は、いわばお客さんをよいしょする詩が多いのですが、職業柄、仕方がなかったことでしょう。
なにをやってもさまになる
薛濤は晩年、杜甫も暮らした浣花渓で静かに暮らします。
浣花渓は静かな農村に流れる川で、錦江の上流にあたります。
そこでおだやかな老後を過ごしつつ、井戸の水で紙をすいて深紅色の詩箋を作っていたそうです。
その紙は評判となり「薛濤箋」と呼ばれています。
いまでも成都の名物だそうで、これまたググってみました。
すると、深紅色の芙蓉の花をもとに作る紙だそうで、さらに雲母をちりばめてあるという、センスのかたまりのような紙でした。
写真で見ましたが、思ったより濃い紅色です。
これに美しい字で美しい詩文が書かれていたら、もうそれだけで、詩を書いた人のことを好きになってしまいそうです。
薛濤が紙をすくために使った井戸は、いまでも成都に残っています。
薛濤の悲しくも美しい世界
まさにドラマのヒロインのような薛濤の人生ですが、彼女は生涯、だれにも嫁ぎませんでした。
薛濤のこころのうちを覗くのは容易ではありませんが、こんな彼女の詩が残っています。
郷思
峨眉山下 水 油の如し
憐れむ わが心の 繋がざる船に同じきを
何れの日か 片帆(へんぽん) 錦浦を離れ
櫂声 斉唱して中流を発せん
(訳)
峨眉山の下、川は油をひいたようにおだやかに流れゆく
いたわしいことだ、わが身は岸に繋がれない舟とおなじであてどもない
いつになったなら、わたしは一艘の舟にのって錦江のほとりの船着き場から発し、
船頭たちの櫂をこぐかけ声がいっせいにひびくなか、川の真ん中を進んでいくことができるだろうか
安禄山の乱にまきこまれ、故郷を離れざるを得なくなり、その後、父とも死別。
家を助けるために花柳界に身を投じた薛濤の人生は華やかだったでしょうが、彼女は本心では、一抹の寂しさを抱えいたかもしれません。
郷思の最後の二行は、いつかなつかしい故郷・長安に帰るときには、だれか自分を愛してくれる人と一緒に舟に乗っているのでは、という夢想がこめられていたように思えます。
そのとき、船頭たちが祝祭の声をあげて、彼女たちを見送ってくれるのでは、と。
蜀漢の費禕からはじまった万里橋のおはなし。
今日もおそらく、橋はそこにあって、多くの人のドラマを見つめているはずです。